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歴史が育んだ古都金沢と高松の伝統芸能公演 IN 栗林公園

Special Beauty Spot RitsurinGarden
栗林公園

Ritsurin Garden,a Daimyo's garden was designated as the 8th special beauty spot in Japan in March,1953.It is the largest,representative“Kaiyushiki-teien"(landscape garden designated for strolling through) in the country.
Under the Cultural Properties Protection Act,at present,a total of 23 gardens have been classified as special beauty spots. Of these,6 are Daimyo gardens and 13 are temple gardens.

 二十四節気では、4月20日の穀雨を過ぎ、5日の立夏を迎えます。
七十二候では、
次候の霜止出苗(霜が終り、稲の苗が生長する)の候から
末候の牡丹華(牡丹の花が咲く)への移りの候です。

 お庭の国宝、栗林公園の花ですが、
サトザクラ(=ボタン桜=八重桜)は、見頃です。
桜茶のもととなるサクラです。
フジも、ツツジ類も見頃を迎え、
ハナミズキは、咲き始めです。

 ハナミズキは、北門から入って30メートルくらいのところと、
公園の北東側にある三木武吉像の近くに見れます。

●歴史が育んだ古都金沢と高松の伝統芸能公演 IN 栗林公園
 天候不順で、ほんとうに直前までやきもきしていましたが、
この25日日曜日は、今までの雨がうそのように晴れ上がり、
まさに雲ひとつない晴天に恵まれました。
これも皆様のおかげです。ありがとうございました。
心からお礼申し上げます。

 古都金沢・石川県と四国の玄関高松・香川県とは、
歴史が育んできた素晴らしい伝統文化など共通するものが多く、
相互に学び合えることから、民間レベルの交流として、
香川の各企業の支店長クラスで組織する「笑狸会」の会員と
金沢の異業種交流の「0の会」の会員との交流が、
本年1月からスタートしました。

 今回は、第2弾として、「笑狸会」の有志会員が、
「栗林公園・兼六園友好交流実行委員会」を創設、
「歴史が育んだ古都金沢と高松の伝統芸能公演 IN 栗林公園」の
イベントを、県と協力して、実施しました。
掬月亭

 古都金沢の西の茶屋街から、一流の芸どころの芸妓の皆さんをお招きして、
園内の最大の数奇屋造りの建物、掬月亭北庭に初めて設営しました
特設舞台で、25日、午前午後の2回公演、
合わせて800人以上の大勢のお客様を迎え、盛大に開催、
無事終了しました。

 ほんとうに奇跡的に真っ青に晴れ上がった4月の空、
連日の雨をたっぷり含んで、眼にも鮮やかな
新緑いっぱいの樹木の数々、
初めて栗林公園を訪れた金沢の芸妓さんたちが、
言葉では表現できないほどだとため息つかれた見事な松林の景観、
借景の紫雲山、池、木々の緑、石組みなどの地割に驚かれていましたが、
観客で観賞されていた県内のお客様も、
この舞台周辺の見事な景観には、さぞかし改めて、
この栗林公園の素晴らしさも含めて感激されたことだと思います。

 香川からは、上方舞吉村流師範の吉村ゆきその先生にお願いして、
出演していただきましたが、先生からも、この特設舞台は、
最高のステージと、お褒めのお言葉をいただきました。
 
 演目は、ご祝儀小唄の、「白扇」と「三番叟」。
 小唄「白扇」は、
舞  吉村ゆきその
唄  竹枝みち(ちくし みち)
糸  岡安喜重之(おかやす きえの)
笛  藤舎秀扇(とうしゃ しゅうせん)

 一舞一管 「三番叟」は、
立方 西川八重治(にしかわ やえはる)
笛  藤舎秀扇(とうしゃ しゅうせん)の出演者でした。

吉村ゆきその

 吉村ゆきその師範は、香川県文化功労者でもあり、
その優雅な舞は、NHK教育テレビでもおなじみです。
竹枝みち師匠は、全国区で名を馳せた師匠で、
今回の公演実現の大きな力となっていただいた方です。
栗林公園の今回の舞台につきましては、特に気に入っていただき、
わざわざ2回も現地に駆けつけ、試験演奏もしていただくなど、
様々なアドバイスをいただきました。
竹枝みち師匠がいなければ、今回の公演は実現しなかったかもしれません。
心からお礼申し上げます。

 また、笛奏者の藤舎秀扇(とうしゃ しゅうせん)師匠は、
御年80歳を超える、しかしとてもチャーミングでお茶目なご婦人ですが、
ひとたび笛を吹くと、すこぶる素晴らしき音色を醸し出し、
私の曲がっていた背中もピンと伸びるほどの迫力があります。
ほんとに、金沢0(ゼロ)の会の皆さんにも慕われていて、
存在がことのほか大きい師匠です。
金沢芸妓

 若い芸妓さんも、3人来られ、
金沢芸妓による舞台を勤め、
昔から謡いつがれ、兼六園の四季を謡った長唄「兼六園」、
民謡風の「金沢小唄」、そして宴会の中締め時に謡って大騒ぎする
「さわぎ」の3曲を、
立方では、純子さん、あき乃さん、紗やかさんが舞い、
唄は、き代美さんが、そして、
三味線は、八重治(やえはる)さんと、ゆき葉さんに
演奏していただきました。

 3人の若い芸妓さんの登場で、舞台は一気に華やぎましたが、
彼女と、彼女らを支える地方(じかた)の三味線と唄の素晴らしさが、
印象に残りました。
特に、き代美さんの声は、栗林公園の中を駆け巡るかのような
落ち着いてしっかりとして、
しかし艶やかさもあって、今でも耳に残っている素敵な唄声でした。
金沢お座敷太鼓

 最後のお座敷太鼓も、鳴り物特有のにぎやかさがあって、
まさに加賀百万石の優雅な雰囲気でした。

 歴史的にも文化的にも同じように素晴らしいものをたくさん有する
金沢と高松、石川県と香川県の今後益々の交流を目指して、
まずは、2つの地域に長年息づき育てられてきた伝統芸能を披露し
公演した今回ですが、
きっかけは、やはり地元ではなく、県外から来られた方たちの
岡目八目のよそ者の眼でした。
私たち地元のものにとっては当たり前の日常の一こまにしか過ぎない
ものでも、よそから来た方々にとっては、
それはまるで宝石のようにまぶしく輝いているものもあるのですが、
残念ながら、言われるまではそれが存在すること自体が
当たり前ですから、気づかないのです。
ほんとにもったいないことですが、事実です。
そういう輝いているものがたくさんある香川のよさを、
地元の方にもう一度再認識していただきたいというのが、
今回のきっかけとなっています。

 県民の宝である栗林公園の本当の価値を、
もっと多くの地元の方に再認識していただければと思います。
金沢にも兼六園という素晴らしい大名庭園がありますが、
栗林公園は、優るとも劣りません。
しかし、地域文化に対する理解度や貢献度、
そして何とかしてその地域の伝統芸能や文化を守っていこうとする
民力の大きさ・強さは、しかしどう贔屓目にみても
石川県に比べ、香川の方が見劣りするような気がします。
年間にお稽古事で使用する金額が全国1位の石川県、
人口当たりの人間国宝出現率NO1の石川県
人間国宝の数も、京都に次ぎ全国2位、ちなみにあの大東京は3位)。

 但し、高松も実は
伝統芸能の質や素晴らしさでは決して見劣りがないものと
思っています。
足りないのは、それを認識する民の力、情熱だと思います。
素晴らしき宝物があればそれでいいではないかとの意見もありますが、
しかしあってもその存在を認識していないのなら、ないのも同然。
そういう意味では、今回のイベント、
あるいはこれから続々と登場する仕掛けが、
今こそ足元に当たり前のように存在する私たちの宝物を
よそから来た人たちによって、
その素晴らしさを再認識し、理解し、
それを情報発信することができるきかっけになればと思います。

 地域間競争は、もうすでに始まっています。
地域の方が、如何に地域のことを知り、情熱を持って
情報発信するかに、地域の活性化はかかっています。
必要なものは、お金ではなく、熱い気持ちなのです。

 県と市町職員初任者研修で講演後に、なぜそんなに熱いのですかと
聞かれ、県内にこれほど素晴らしいものがたくさんあって、これを知れば
燃えないのが不思議です。
お金では、人が集まっても、無くなれば縁の切れ目。、
しかし、熱い気持ちは、お金以上に人の心を動かします。
お金では得られないものが、実にたくさんこの世にはあります。
気持ちで結ばれるほど、強いものはありません。

 皆さんもぜひ、よそ者の眼で香川を見直してください。
そこには眼うろこの世界が広がっています。
そして、今回の栗林公園でのイベント、
確かに金沢から来ていただき、素晴らしい伝統芸能を披露して
いただきましたが、実は、何よりも金沢の関係者が、
改めて、香川にはなんと素晴らしい公園があるのかと
驚かれた、このこともまた今回の目指すべき一つであったことを
あわせて記しておきます。

 今後とも、笑狸会や金沢0の会の皆さんの応援を受けながら、
金沢・高松、石川・香川と、伝統芸能だけでなく、
子供たち、学生、婦人会など多方面での交流が重なりますように、
仕掛け作りをしていきたいと思っています。
兼六園と栗林公園の姉妹縁組もできればと思っています。
皆様のご協力を心からお願いします。





●「番外 桜田門外の変」の追加情報!
「番外 桜田門外の変」の追加情報!
 実は、重傷を負った家来達は、その後切腹の沙汰が降ります。
藩主の命を守りきれなかったことはそれほど大きなことなのです。
そして、軽傷や無傷の家来は、どうなったかというと、
全員、打ち首、お家は断絶、
近親者も打ち首という厳しく非情な沙汰が降りています。
これが、武家社会、封建社会の厳しい現実です。
ほんとうに平和な今の世の中に感謝しなければいけません。

 実は、この私のこの先週発信の文を読まれて、そのあたりのことが
詳細に書かれている本を見つけましたというリプライメールが届きました。
ほんとに貴重な方です。感謝です。
 
 その本は、吉村昭著書の「史実を歩く」(文春新書)です。
私も思わずその本を購入しました。

 少し長くなりますが、引用させていただきます。
「桜田門外ノ変」余話
「桜田門外ノ変」が単行本として出版された後、
読者の方から多くのお手紙をいただいた。
その中に、山中露丘という方からの葉書がある。

 山中氏は、神奈川県川崎市の多摩川沿いの寺の住職から
聞いた話しだとして、左のようなことを伝えてくれた。
 桜田門外の乱闘があった時、現場から逃げた彦根藩士が、
刀を捨て、雪の降る多摩川を越えて寺の前で倒れた。
 当時の住職が助けて事情をきくと、もしも藩邸にもどれば、
なぜ死ぬまで藩主を守って闘わなかったのか、となじられ、
必ず切腹を命じられる。
それが、恐ろしく、ここまで逃げてきた、と言った。
 さらに男は、一生この寺に置いてくれと懇願したので、
住職は承諾し、男は頭を丸めて寺男になり、生涯を終えた。
墓は寺にあるという。
 墓があるということに、私はこの話が事実にちがいない、と思った。
 (筆者が寺の確認にいたる経緯は一部略)
 廣福寺を訪れて住職に葉書を見せた私は、
その寺が乱闘の現場から彦根藩士がのがれてきた寺であるのを知り、
住職から話をきいた。
 寺は彦根藩と関係があり、住職の犬塚勝健氏は、
桜田門外の変が起こった頃の家老犬塚外記の末裔だというただし、
藩士がのがれてきたのは、それが理由でなかった。
 藩士は、山中氏の葉書通り廣福寺の寺男になって身をひそませ、
生涯を終えたという。
 住職は、寺にその元藩士の墓はないが、本堂の近くに辞世を刻んだ
碑が立っていると言い、石段を登って碑の前に立った。
 辞世はひどい崩し字で判読できず、碑の裏面を見た。
「彦根隠士 畑権助 法名秀元」とあり、
「文久三年、歳七十五で建之」と刻まれている。
桜田門外の変は三年前で、七十二歳で事件に遭遇したことになる。
 そのような高齢では十分な切り合いなどできるとは思えず、
主君が首級をあげられたのを眼にして申訳が立たぬと考え、
現場からのがれたのだろう。
 隠士と自ら記していることに、その老いた元藩士の心情が察せられた。
 山中氏以外にも、井伊直弼の行列に加わっていた足軽の末裔の方から
手紙をいただいた。その足軽も恐怖におそわれて逃れ、
寺に入って僧徒になり、主君の冥福を祈って生涯を終えたという。
 その手紙も保管してあって探してみたが見当たらず、
紹介することができない。
 このように、現場からのがれた彦根藩士の者はほかにも
いたにちがいない。と記述されている。

 また、乱闘現場での状況も、紹介しておきます。

 乱闘現場では、(水戸藩士側)稲田重蔵が闘死し、
重傷を負った有村次左衛門(薩摩藩士)、山口辰之介、鯉渕要人、
広岡子之次郎は自刃、薄田市五郎、斉藤監物、佐野竹之介、
大関和七郎、森五六郎、杉山弥一郎、森山繁之介は、
それぞれ自訴している。
また、自訴した者のうち、傷を負っていた佐野、斉藤、黒澤は死亡し
他の五人は死罪の申渡しを受け、斬首されている。
 行列に加わっていた彦根藩士のうち河西忠左衛門、沢村軍六、加藤苦九郎太、
永田太郎兵衛の四人が乱闘で斬殺され、深手を負って後に死亡した者が
四人いた。
 すさまじい戦いであったのである。
 現場からはなれて逃亡した暗殺者側の者は、関鉄之介、岡部三十郎、
広木松之介、海後磋磯之介、増子金八の五名である。
 この中で、増子は平潟村の回船問屋の家にかくまわれたりして、
病いを経て明治維新後に故郷にもどり、明治十四年十月十二日に死去した。
六十歳であった。
 海後は、家族の必死の助力によって転々と逃げ、
明治維新後東京に出て警察官になった。
退官後、明治三十六年五月十九日、病歿した。七十六歳であった。
つまり、井伊大老を襲撃した水戸藩士十七名、薩摩藩士一名のうち、
関を除いて、増子と海後は鋭い追及をのがれ、明治時代まで生きたのである。

 なお、乱闘は、切り合いというものではなく、
体を密着させ、鍔迫り合いをしていたようである。
その証拠に、乱闘後の雪の上には切り落とされた耳や指が残っていて、
彦根藩邸の者がそれを片付けている。
これは、現在、皇居の桜田門の前には警視庁の建物があるが、
江戸時代はその地に譜代藩である杵築藩松平大隈守の江戸藩邸があった。
興津という江戸留守居役が、眼前で突然起こった乱闘を
藩邸の窓から終始見つめ、それを記録しているのである。と記述されている。

  
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テーマ : 香川
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